
渡辺翁=渡辺祐策(わたなべ・すけさく)は、宇部出身の日本の実業家、政治家で、宇部興産の創業者。
(撮影|松葉一清)
1891年(明治24年)、村野藤吾は、佐賀県の唐津に生まれた。
この生年は、ミース・ファン・デル・ローエ(1886年)、
ル・コルビュジエ(1887年)のそれより数年遅れであり、
そのことが村野の評価を特異なものとした。
ちなみに昭和のわが国建築界を二分した丹下健三(1913年)との比較では、
ひと回り以上年長ということになる。
九州・小倉の工業学校の機械科を卒業し、八幡製鉄に就職したあと、
一念発起して早稲田大学の電気工学科に進み建築学科に転科した。
卒業の年には27歳、建築家として晩生のスタートだった。
大阪において折衷主義の名手として知られた渡辺節の事務所で手腕を高め、
独立した1928年(昭和3年)には37歳になっていた。
渡辺事務所時代から力量は定評があり、装飾的な表現に長けていたが、
同時代のル・コルビュジエらによるモダニズムにも強い関心を抱き、
近代建築家としては独自の作風を確立して行った。
戦前の代表作に「大阪そごう」(1936年=昭和11年)、
「渡辺翁記念会館(宇部市民館)」(1937年=昭和12年)があり、
いずれも構成主義やドイツ表現派など、同時代の新表現を見事に咀嚼し、
かつ、精緻な細部の構成ではモダニズム以前の世代ならではの工芸的な技量も発揮した。
後者は国の重要文化財にも指定され、戦前のわが国の建築家の水準が、
明治以来の欧米学習の域を脱したことをうかがわせる、記念碑的な作品と位置づけられる。
(撮影|松葉一清)
戦後のモダニズム全盛期には「有楽町そごう」などで若い世代の評者から折衷主義的体質を批判されたが、
1970年代後半からの近代主義批判からポスト・モダンの流れのなかで、
モダニズムの権化であった丹下健三と対極の位置づけを与えられ、わが国建築界の主流の一角を占めた。
大阪なんばの「大阪新歌舞伎座」(1958年=昭和33年)の
唐破風の連続する外観に見られる自由闊達な日本解釈を見事に建築作品として制御する力量は、
モダニズム以前の時代に教育を受けて長く第一線で活躍し続けた村野の真骨頂を示すものであり、
モダニズムを超克した今日において初めて確たる評価ができ得る作品である。
(撮影|松葉一清)
東京においては「日本生命日比谷ビル」(1963年=昭和38年)が、
村野の作風と力量をあますところなく伝えている。
御影石のざらざらした外壁、ホールホワイエの手の切れそうな曲面階段、
さらにホール天井のアコヤ貝の妖艶な輝きなど、村野の建築家としての頂点をこの作品は全身で体現している。
また、赤坂離宮の改装など、芸術院会員、文化勲章受賞者として、国家レベルでの建築文化の高揚に大きく貢献した。
(撮影|松葉一清)
1984年、93歳で生涯を閉じたが、建築家としての出発の遅さを挽回してあまりある
生涯現役の激動の建築家人生だった。
(松葉一清/武蔵野美術大学教授)